ドメーヌ・アンリ・ボワイヨ コルトン・シャルルマーニュ        – Henri Boillot Corton Charlemagne 2000 –

 

 

本日のDなワインは…

“Henri Boillot Corton Charlemagne 2000” (ドメーヌ・アンリ・ボワイヨ コルトン・シャルルマーニュ)です。

 

 

フランス4大白ワインの一つとも言える ”コルトン・シャルルマーニュ”。

フランスのワイン格付けでは Grand Cru(特級)となります。 IMG_0395

 

 

このワインの名前は、西暦800年頃のシャルルマーニュ大帝に由来します。

「このブルゴーニュ・ワインを飲んだ者は、一生のどの渇きを覚える」と言わしめるほどの大のお気に入りだったそうです。

 

「最低でも10年は寝かせてから」と言われるコルトン・シャルルマーニュ。

このワインの本当の美味しさがわかるのは、人生の酸いも甘いも噛み分けたアラフォー世代くらいから… と言っておられる方もいらっしゃるような、とにかく魅力的な逸品と言えるでしょう。

 

 

さて、今宵のワイン、 2000年アンリ・ボワイヨ作は… シールをカットして抜栓すると…そこは高貴さの漂う重厚な花園です。

すみれや青リンゴ、ピュアで美しいアロマ。軽い火打石の香りもします。

 

生き生きとしてコクがあり、エレガントで豊かなミネラル感があります。 時間とともにナッツ、バタースカッチ、洋梨などのニュアンスが… そして、奥深さも加わり、重厚さ、深さ、そしてエレガントさの絶妙なハーモニー。

 

 

コルトンシャルルマーニュにしては重すぎず、洗練されたバランスに優れた しっかりとして豪華さを感じさせるワインですね。

例えて言うなら、鋼の甲冑を着た戦士の花園でのひと時の安らぎ…でしょうか?

 

 

歴史と風土と人を感じさせる… ワインて本当にいいですね。

 

 

 

 

 

  <Today’ Wine>

”Henri Boillot Corton Charlemagne” 
(ドメーヌ・アンリ・ボワイヨ コルトン・シャルルマーニュ)CC4

 

・種類   :白

CC1・産地   :フランス ブルゴーニュ地方 アロース・コルトン

・ビンテージ:2000年

・ぶどう品種:シャルドネ

シャトー・レグリーズ・クリネ 1992  Chateau L’eglise-Clinet 1992

 

 

 

本日はボルドー右岸ポムロールの隠れた名手 ”Chateau L’eglise-Clinet 1992”
シャトー・レグリーズ ・クリネ)を抜栓しました。

 

 土地も狭く、条件も良いとは言えない土地柄のポムロールですが、
ペトリュス、セルタン、 ル・パン、ラ・コンセイヤント、レヴァンジル etc.、素晴らしい生産者がひしめいています。

 

また、公式な格付けがないこともポムロールの特徴ですが、村全体のワインの質は大変高く、
ワイン愛好家の注目を集めています。

 

 

かの有名なワイン評論家ロバート・パーカー氏も 「レグリース=クリネは今もなおワイン通の秘密であるが、
熱烈な信奉者を抱える。」 と評しています。

 

 

さて、本日のシャトー・レグリーズ・クリネ 1992ですが、抜栓時には仄かなプラム様なアロマを感じます。

 

コルクを確認後、グラスに注ぐとややレンガ色がかった赤紫色ですが、 依然として濃く、エッジはまだシャープです。

プラム、ラズベリーなどの香りを確認しつつ口に含むと、まだ若い感が… タンニンも強く、
フィニッシュが少しざらついる感があります。

 

 

bad vintageを考慮しても、かなり強く作られていますね。

 

そして、あれこれ考えながら30分くらい戯れていると… 変化がどんどん現れてきます。

プラム、ラズベリー、チェリー、スモーク、トリュフの複雑なハーモニー。

それと不思議にかすかバナナにも似た甘い香りが… 果実味、タンニンがしっかりとして、
重厚と言うより、強さと豊かさがあります。

 

ワインのアスリートとも表現できるかもしれません。

 

いいですね〜。 これだからワインは止められません!

 

 

 

シャトー・レグリーズ・クリネ

 

<Today’s Wine> Chateau L’eglise-Clinet (シャトー・レグリーズ ・クリネ)

 

 

・種類   :赤

・産地   :フランス ボルドー地方 ポムロール

・ビンテージ:1992 ・生産量年間:12,000〜15,000本

・セパージュ:メルロー80〜85% :カベルネ・フラン15%~20%IMG_0369-1

グアム現地視察 海外に暮らすということ

グアムでの現地での生活体験の中に、観光も入れていただきました。

駐在員とその家族は、日本からの出張者や訪問者をアテンドすることがよくあります。 そのアテンドを体験させていただくためです。

島内は3時間あれば一周できる距離です。 道路事情に関しては、道の舗装は決していいとはいえないものの、

運転が全体にのんびりしていて、運転の苦手なMさんもストレスなく車ライフを楽しんでいます。

楽しむ、というより、生活の手段としてなくてはならないものなのですが。 ハワイより質感がやや日本に近い、潮の香りの強い美しい海は、グアムの財産です。 シュノーケリングや海岸散歩も、観光ではなく日常に楽しめるのがうらやましく思いました。

とはいえ、日常となると、なかなか海に行くことはないそうです。 それが暮らしというものだ、と思いました。

衝撃だったのは、戦争記念館でした。 第一次、第二次世界大戦を、「勝者としての」アメリカの側からの視点で見ると、

こうも「敗者」の日本側とは異なるのだということを痛感しました。

歴史認識を明確に持たないと、現地の人、外国の人と対等に話をすることはできないと思いました。

朝市に行き、現地の人の暮らしぶりも垣間見ました。 現地のチャモロ人の微笑ましいのんびりぶりも、

観光者なら新鮮で見ていましたが、 Mさんによると、普段はのんびりしすぎて、イライラするそうです。

駐在は、「旅」ではなく「暮らし」。その視点を共有することが私の勤めだと痛感しました。

駐在していれば、日本からのお客さんを何度も案内することになります。

お客さんにとっては初めてでも、何度もつれてくる駐在員とその家族は、飽きてしまいます。

自分たちのせいではないのに、「何もないところで・・・」となぜか謙遜したり・・・

自信過剰になることなく、かといって自信喪失することなく、 あるがままを淡々と一生懸命生きる、ということが

海外生活では案外難しいものです。 海外で暮らすということは、精神的なポジションを日本と現地の「中間」に

置くことになります。 それは不安定さを伴います。 だからこそ、自分軸を持つことが重要だと思います。

初めからブレない軸は持てません。 揺れてもまたまっすぐ立ち上がり、倒れてもまたまっすぐ立ち上がり、の繰り返しです。

自分を信じて行動し続けるしかありません。 「信念」を持つ。言い古された言葉かもしれませんが、

もっとも重要なことだと思います。

駐在員とそのご家族にわかっていただきたいこと、それは 「あなたたちの存在は素晴らしい。 外貨を獲得し、日本人の素晴らしさをシェアし、 日本人にその国jの文化を広めている」 ということ。

素晴らしい外交です。 私は、素晴らしい民間外交官であるH夫妻を誇りに思いました。 知人として、そして日本人として。                                                                 IMG_1568

グアム現地視察 Guam駐在の現状

日本を飛び立ち、3時間後に到着したグアムは、半袖一枚で十分な温度と湿度。

それでも「冬」なので、夏の暑さの比ではないそうです。

クライアント宅は、空港から10分ほどの一軒家。 多くの日本人が暮らす地域とは少し離れているそうです。 それは、自分たちのスペースを守るため、そしてセキュリティのしっかりした区画の一軒家であることをポイントに探して決めた物件だそうです。

広々とした3LDK+収納の二階建てのお家は、庭もお部屋もきちんと手入れされて片付けられ、南国の邸宅の雰囲気を醸し出していました。 3〜40軒ほどあるこの区画の中には、プールもテニスコートもあり、区画内ならば夜のお散歩も可能なほど安全かつ快適な空間でした。

ご主人はD社にお勤めです。D社は現地社員約400名、日本人駐在員5名で、社長はアメリカ人。 国立大学の工学部大学院卒の彼は、頭脳明晰で温厚なお人柄。 以前は技術者であり研究者であり、人間関係よりも実質の問題を解決することに焦点を当てる人でしたが、 今回、よくお話を伺っていると、中間管理職として後輩の育成、父親として子供の教育に焦点が当たっていて、 もの凄く、人間としての器が大きくなっていることに感動しました。 環境と、彼の意思が彼を育て、今の在り方を決めていると思いました。

もしも、はないけれど、彼が日本にいたなら、この広がりが別の形としてもあったのだろうか?と思いました。 もちろん、別の形の成長があったと思います。 しかし、海外赴任の経験が確実にリーダーとしての彼を育てました。 彼は部下を、会社を、日本を牽引するサラリーマンだ、と私は実感しました。

奥様もまた頭脳明晰です。大学卒業後、銀行に勤めた後に大学院に入って心理学を学び、研究所で勤めていました。 バングラディシュに行く直前までお勤めしていたので、バングラディシュに行った当初は 「専業主婦」になったことに対応するのが苦痛のようでした。 暴動や蚊に悩まされたバングラディシュの不自由さに耐えた後のグアムはさぞかし快適かと思っていましたが、家族の健康を守るために手作りのパンを作り、お弁当を作り、子供の学校や習い事の送り迎えに明け暮れる日々は、「必要なことをしているとは思うけれど、時折虚しくなる」そうです。

わかります。 私もかつて駐在員妻をしていた時がありました。日本にいる時では味わえない贅沢や楽しみがありました。

でも、大好きな家族のために、台所に立ち続け、日本に帰ったら私はどうするのだろう・・・?

そんな疑問が「うつ」へと繋がっていったのです。

それでも彼女は編み物の通信教育を受けたり、水泳をしたりして前向きに自分構築をしています。

日本に帰ったら、「編み物カフェ」を開けるように、計画を立てています。 微力ながら、私が日本での起業も応援させていただくことになっています。 Mさんの素晴らしいバイタリティ。

家族を犠牲にせずに自分も大切にしていることを、心から尊敬します。

素敵なマダムとして、確実に成長しているMさんは、日本に帰っても必ず彼女なりの成功を収めると思います。    IMG_1530

グアム現地視察 出発

今日は小春日和。久々にコートが必要ありません!

これからGuamに出発です。 駐在員とその家族の現状と問題をヒアリングするために、グアムに出張してきました。

奥様がクライアントであるH家は、半年前に一年間のバングラディシュ駐在を終えて、横移動でグアム駐在となりました。

世界最貧国のバングラディシュで、生活の不便さに加えて暴動や蚊に悩まされ、 うつ気味になってしまった奥様のMさんは、

私たちのコンサルティングを受けてくださり、 自宅でカフェを開くまで元気になった方です。

グアムは、少なくともバングラディシュよりは生活が便利になったはずですが・・・・ 実際のところはどうなのでしょう?

H家にお邪魔させていただき、現地の生活の現状をうかがってきました。pla0021-012

DなWine Lifeとは…

 

 

 

 

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DなWine Lifeとは…?

 

 

欧米、特にヨーロッパではワインを嗜む習慣があります。

 

 

ワインそのものを楽しむことはもとより、 バタール、バゲットやチーズ、食事とのマリアージュまで幅広い楽しみ方があり、
3〜4時間をかけてゆっくりと食事をとる際には欠かすことの出来ない存在でもあります。

 

プライヴェートで親交を深める際、ビジネスで話しをスムーズに進める際には ワインの嗜みを知っていると
公私ともに充実した海外生活を送ることに 大きなポイントになることが多いですね。

 

そこでそのワインの特徴、マナーや楽しみ方をシェアーし、 充実して素晴らしい赴任生活にして戴きたいと思います。

 

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岡崎 My Story ⑥ D-Life誕生

私は幸運な人間です…とつい最近、思えるようななりました。

その時どきを一生懸命生きてきましたが、 選んだと同時に、良きものへと導かれているし、 人との出会いによって、

より広い世界へのステップを踏んできました。 今、こうして、悩み苦しむ人のそばに寄り添うことができたり、

そうならないための予防のお話をさせて戴けることは、 私にとっては感謝以外の何ものでもありません。

少なくとも、海外に暮らして贅沢に明け暮れていた頃の私にはできないことです。

うつに苦みながらも小さな自分に固執していた頃の私にはできないことです。

誤った再婚をし、暴力に怯えて膝を抱えて泣いていた頃の私にもできないことです。

しかし、全ての「あの頃の私」があったからこそ、今の私ができることがあるのも事実です。

人には、生きていく力、幸せになる力が備わっている、と感じています。

ただ、心を開いて、人に手助けを求めれば、もっと強くなれるし、優しくなれるし、幸せになれる。

私は悩み苦しんだ者として、人に助けられた者として、今度は悩み苦しむ人を助けたい。

D-Lifeには、私のこんな想いがぎゅっと詰まっています。

岡崎 My Story ⑤ 帰国後

帰国した私は、玉手箱を開けた浦島太郎の気分になりました。

住む空間の面積は半減し、当然、お手伝いさんはおらず、 物価は高く、夫はほとんど家におらず、 小さい子供を抱えて近所の公園とスーパーを巡る日々…

同級生や同期達は、着実にキャリアを積み上げているのに、 「仕事をしている」自分がない、つまり収入のない自分が惨めでした。

空気が乾燥し、気候もよかった欧州に比べると、 日本の夏の蒸し暑さは堪え難く、 何度か熱中症になりかかり、 おさまっていたアトピーも再発しました。

そんな中、私は視点を変える方法を見い出せず、 ゆるやかに心を病んでいきました。

このままご飯を作って、洗濯をして、掃除をしての繰り返し。 そしていずれまた、夫の赴任地へと行き、 そこで一から生活を築き、数年したら帰国し… 将来の展望が持てなくなってしまいました。 自分の立ち位置どころか、地図も見失ってしまったのです。

私は誰の話も聞かなくなってゆき、 あらゆる周囲と対立… 「自分、自分」と主張ばかりし、 あらゆる言い訳を正当化しました。 夫と離婚することが、自分の前進になるという突拍子もない勘違いも始まりました。

「うつ病じゃない?」という知人の勧めで心療内科に行き、 診察もカウンセリングも受けましたが、 「正しいこと」が何なのか分かりませんでした。

そうこうしているうちに2年が過ぎ、 私は「一人でも子供を育てて生きていける」という根拠のない自信を頼りに、 私の病の癒えるのを根気よく待っていてくれた夫を振り切り、 両親の反対も押し切って、 小さな子供を連れて家を出たのです。 自分ではうつ病は克服したし、 「自分で選んだ」気持ちになっていましたが、 明らかに私の判断力は病んでいました。

1年間の母子家庭でのアパート暮らしの後、私は再婚しました。 熟慮の上のはずでした。 しかし、「考える」自分の根幹が病んでいる状態での思考、判断は健全ではありません。 再婚相手の言葉、態度のDVが明らかになるのに、1年はかかりませんでした。 それでも、私は後戻りできないと思い込み、なんとか頑張ろうとしました。 自分さえ頑張れば、きっと相手も変わる、事態は良くなると思って…

薄氷を踏むような日々の中、私は自分自身の再構築を始めました。 まずは親に非礼を謝り、とにかく話を聞いてもらいました。 また、親の話も聞きました。 そして、ごく親しい、私を冷静に見てくれながらも励ましてくれる友人に 心を開いて相談しました。 方々にお願いをして、翻訳の仕事を再開しました。 起業塾にも行きました。

数ヶ月先、1年先などわかりませんでした。 ただ、その日、その時をもがきながら懸命に生き抜く、という日々。 自分の不甲斐なさに何度声を上げて泣いたことか、わかりません。

しかし、私は生きていかなければならない。 子供をちゃんと育てなければならない。

チャンスは思わぬところから舞い込みました。

とあるスピリチュアルな講座を日本で開催するアメリカ人から、 テキストや著書の翻訳、さらにワークショップでの通訳を依頼されたのです。 そのタイミングとほとんど平行して、通っていた起業塾の講師がコーチングの講座を開設するにあたり、 アシスタントを募集していたので応募すると採用され、お手伝いをしながらコーチングを学べることになったのです。

この頃から、「本当の自分とは?」をスピリチュアルな観点から考え、 「今をいかに生きるか?」をコーチングの観点から体得していくことができるようになり、 私の人生に光が差してきました。

しかし、現実では夫の物理的な暴力が始まりました。 本当に怖い思いをしました。

子供にどれほどの迷惑をかけ、心に傷を与えてしまったかを思うと、今でも涙が出ます。

ところが、これも私がその場を離れるために必然に起こったこととすれば、 意味があったのです。

それほどのことでもなければ、私は決心がつけられなかったと思います。

コーチングの威力を知って思ったのは、うつになった時にもしコーチングを知っていれば、 またはもしコーチをつけていれば、こんなことにはならなかったのではないかということです。 そして、「コーチングの手法をうつ病予防に役立てられるのでは?」と考えた時、 自らの経験を生かし、コーチとして私が社会貢献できる具体的な方法として 「海外赴任する方とその家族に、うつ病にならずに、現地で成功して戴くために、 事前にお話する機会を作れないだろうか?」とひらめいたのです。

そんな時、信頼できる友人の一人に 「あなたは本当にどうなりたいの?」 と聞かれました。

「自由になりたいと思っている」 と私が答えると、

「思っているうちは実現しない。『なる』と宣言すれば現実になる」 と言われました。

私は即座に「私は自由になります」と、 自分自身と宇宙に宣言しました。

すると、即、奇跡は起こりました。 私の思いに賛同してくれる人が現れ、会社を一緒に起こすことになったのです。 それが、コーチ仲間であった現D-Lifeの社長です。 同時に、経済的自立のめどが立ったので 「再婚したのだから離婚してはならない」という思い込みから解き放たれ、 私は生きる場所を自ら選んで移りました。

自由になろうとあくせく努力するのではなく、思いの強さに現実がついていく感覚で、 たしかに物理的な大変さはあっても、自然な意味でのあるべき姿を感じられました。

岡崎 My Story ④ 海外赴任生活

極寒の1月に降り立ったポーランドの首都ワルシャワの空港は、 驚くほど小さかったのがとても印象的でした。 空港から新居までのデコボコ舗装の道では、車に揺られて酔いそうになりながら、 共産圏時代の名残である灰色の画一的なアパート群を眺めていました。 まだアスファルトが敷かれていない道も多く、溶け残った雪が茶色く、街行く人も暗い色のコートを着ていて、寂しさとも侘しさともつかないものを感じました。 それでも、到着した新居はガードマン付きの120平米の新築マンション。 いわゆる、富裕層や外国人が入るマンションでした。 それまで自分たちが暮らしていた部屋がゆうに2つ分入るくらいの広さと天井の高さに感動しました。 また、当然のごとくメイドさんが付きました。 時差が落ち着く間もなく、引越荷物の開梱、会社での歓迎会、 同世代の日本人内での歓迎会などが続きました。 寂しい、と思う間はありませんでした。 語学学校、外国人女性の集まり、日本人同士のランチ会やホームパーティー、 テニス、ピアノのレッスン、陶器の絵付け、旅行 etc. 一日48時間欲しかったし、自分が2人欲しかった。 でも逆に、有り余る時間と心の隙間を埋めるように、忙しくしていたのかもしれません。 ワルシャワでの生活が始まってから3ヶ月後には、 もう1年以上ここで暮らしているような錯覚に陥るほど、私は適応していたと感じていました。 しかし、それは仮の高揚感だったのかもしれません。 1年も経つと、親しかった友人が帰国したり別の国に異動になったりしました。 人間関係の捩れのようなものも生まれ、年配の日本人女性から不当ないじめを受けました。 また、その件が落ち着く頃、子供ができました。 現地の医療の不安から出産は日本でしたものの、 ワルシャワに戻ってからは育児の不安から、心穏やかでない日々が出てきました。 今でこそ、「産後うつ」という言葉が多くの人に知られていますが、 ほんの10年ほど前は、それほど一般的に知られておらず、 「私に限って、そんなことになるはずがない」と思い込んでいました。 もし、事前に、「海外ではメンタルトラブルを抱えやすい」という事実、 そして「それは誰にも起こりうる」ということを知っていたなら、私は現状を受け止め、 何らかの対策を講じられたのではないかと思います。 しかし、誰もそのことを指摘せず、私自身も不勉強だったので、 「気のせい」「心の持ちよう」「わがままを言うべきではない」として 不安に蓋をするかのごとく、買い物や旅行で心の隙間を埋めていました。 そんな心を抱えて1年ほど経つと、夫に帰国の辞令が出ました。 不思議に日本に帰ることができる嬉しさは、あまりありませんでした。 不便はあっても何とか頑張って来た5年間に、 自分からではなく外的な要因で終止符が打たれることに何故か納得がいかなかったのです。 たとえ仕方ないとわかっていても。 また、広い部屋から狭い社宅に移るのも、気乗りがしませんでした。 自由がなくなる気がしました。 さらに帰国すると、仕事をしていない自分を自覚せざるを得ないのも、嫌な気持ちでした。 まだ小さい子供を抱えて、忙しくなる夫を待つ生活を想像すると、かなり落ち込みました。 それでも、私には何も選択肢はありません。 辞令が出て1ヶ月後には、泣く泣くワルシャワの地を離れ、 日本の社宅に入って行きました。

岡崎 My Story ③ ワルシャワの地へ

赴任先は「ポーランド」の首都ワルシャワ。

前夫は出張で一年のうち三分の一はポーランドにいたので、 彼にとっては「やはり」の赴任だったと思いますが、 私にとっては未知の地での生活のスタートでした。

右往左往しながらの引越準備が始まりました。 辞令が出てから出発まで1ヶ月。

とにかく、冬の寒さの厳しさのイメージが強く、とりあえず分厚い羽毛布団を買いました。

(実際には、ほとんどの家はセントラルヒーティングなので、冬でも半袖で過ごせるほど。 厚い布団は必要ありませんでしたが、もしセントラルヒーティングが壊れたら… と思うと、 マイナス10度の寒さになる冬には、それくらいの備えはあってよかったのかもしれません)

また、日本食材はあまり手に入らないとの情報があったので、 業務用スーパーで大瓶の調味料を買い込みました。

引越作業と平行して日本での仕事の始末、家族への挨拶など、本当にめまぐるしく日々が過ぎ、 引越を完了する頃は、感慨よりも疲労しか感じませんでした。

実際には、夫が辞令が出てから一ヶ月後に出発し、私は三ヶ月後に出発しました。 その三ヶ月間は仕事の始末をつけ、会っておくべき人と会い、足りない買い物を補うなど、 多忙を極めました。

夫が出発してから、会社での奥様研修がありました。 会社の会議室に世界各地に赴く30名くらいの奥様が集合。

米国や、欧州(英国、ドイツなど)は複数名行く方がいらっしゃいましたが、 東欧は私一人…  情報を共有できる方はいませんでした。 経験者のお話もありました。 内容的には、アメリカ駐在から帰られた奥様が、 その方のアメリカでの暮らしについて30分ほどお話になりましたが、 残念ながら、東欧で生活を始める私にとって響く内容ではありませんでした。 その後、会社から「海外生活マニュアル」のようなものが配布され、 「何かあったら、これを見るか、人事に聞いて下さい」と言われ、2時間もせず終了。 私は夫の所属していた部署にお菓子折りを持って挨拶に行き、帰宅しました。

また、夫の場合、前任者がいなかったため、前情報がほとんど無く、 夫が現地で知り合った他社の奥様からの情報を頼りに、できる限りの準備をした、 という状態でした。

それでも、20代で若く、子供もいなかったこともあり、「行けばなんとかなる」と、 良くいえばポジティヴに、悪くいえば安易に捉えていました。

そして夫の辞令が出てから3ヶ月後、いよいよ私はポーランドへと旅立ちました。