岡崎 My Story ⑥ D-Life誕生

私は幸運な人間です…とつい最近、思えるようななりました。

その時どきを一生懸命生きてきましたが、 選んだと同時に、良きものへと導かれているし、 人との出会いによって、

より広い世界へのステップを踏んできました。 今、こうして、悩み苦しむ人のそばに寄り添うことができたり、

そうならないための予防のお話をさせて戴けることは、 私にとっては感謝以外の何ものでもありません。

少なくとも、海外に暮らして贅沢に明け暮れていた頃の私にはできないことです。

うつに苦みながらも小さな自分に固執していた頃の私にはできないことです。

誤った再婚をし、暴力に怯えて膝を抱えて泣いていた頃の私にもできないことです。

しかし、全ての「あの頃の私」があったからこそ、今の私ができることがあるのも事実です。

人には、生きていく力、幸せになる力が備わっている、と感じています。

ただ、心を開いて、人に手助けを求めれば、もっと強くなれるし、優しくなれるし、幸せになれる。

私は悩み苦しんだ者として、人に助けられた者として、今度は悩み苦しむ人を助けたい。

D-Lifeには、私のこんな想いがぎゅっと詰まっています。

岡崎 My Story ⑤ 帰国後

帰国した私は、玉手箱を開けた浦島太郎の気分になりました。

住む空間の面積は半減し、当然、お手伝いさんはおらず、 物価は高く、夫はほとんど家におらず、 小さい子供を抱えて近所の公園とスーパーを巡る日々…

同級生や同期達は、着実にキャリアを積み上げているのに、 「仕事をしている」自分がない、つまり収入のない自分が惨めでした。

空気が乾燥し、気候もよかった欧州に比べると、 日本の夏の蒸し暑さは堪え難く、 何度か熱中症になりかかり、 おさまっていたアトピーも再発しました。

そんな中、私は視点を変える方法を見い出せず、 ゆるやかに心を病んでいきました。

このままご飯を作って、洗濯をして、掃除をしての繰り返し。 そしていずれまた、夫の赴任地へと行き、 そこで一から生活を築き、数年したら帰国し… 将来の展望が持てなくなってしまいました。 自分の立ち位置どころか、地図も見失ってしまったのです。

私は誰の話も聞かなくなってゆき、 あらゆる周囲と対立… 「自分、自分」と主張ばかりし、 あらゆる言い訳を正当化しました。 夫と離婚することが、自分の前進になるという突拍子もない勘違いも始まりました。

「うつ病じゃない?」という知人の勧めで心療内科に行き、 診察もカウンセリングも受けましたが、 「正しいこと」が何なのか分かりませんでした。

そうこうしているうちに2年が過ぎ、 私は「一人でも子供を育てて生きていける」という根拠のない自信を頼りに、 私の病の癒えるのを根気よく待っていてくれた夫を振り切り、 両親の反対も押し切って、 小さな子供を連れて家を出たのです。 自分ではうつ病は克服したし、 「自分で選んだ」気持ちになっていましたが、 明らかに私の判断力は病んでいました。

1年間の母子家庭でのアパート暮らしの後、私は再婚しました。 熟慮の上のはずでした。 しかし、「考える」自分の根幹が病んでいる状態での思考、判断は健全ではありません。 再婚相手の言葉、態度のDVが明らかになるのに、1年はかかりませんでした。 それでも、私は後戻りできないと思い込み、なんとか頑張ろうとしました。 自分さえ頑張れば、きっと相手も変わる、事態は良くなると思って…

薄氷を踏むような日々の中、私は自分自身の再構築を始めました。 まずは親に非礼を謝り、とにかく話を聞いてもらいました。 また、親の話も聞きました。 そして、ごく親しい、私を冷静に見てくれながらも励ましてくれる友人に 心を開いて相談しました。 方々にお願いをして、翻訳の仕事を再開しました。 起業塾にも行きました。

数ヶ月先、1年先などわかりませんでした。 ただ、その日、その時をもがきながら懸命に生き抜く、という日々。 自分の不甲斐なさに何度声を上げて泣いたことか、わかりません。

しかし、私は生きていかなければならない。 子供をちゃんと育てなければならない。

チャンスは思わぬところから舞い込みました。

とあるスピリチュアルな講座を日本で開催するアメリカ人から、 テキストや著書の翻訳、さらにワークショップでの通訳を依頼されたのです。 そのタイミングとほとんど平行して、通っていた起業塾の講師がコーチングの講座を開設するにあたり、 アシスタントを募集していたので応募すると採用され、お手伝いをしながらコーチングを学べることになったのです。

この頃から、「本当の自分とは?」をスピリチュアルな観点から考え、 「今をいかに生きるか?」をコーチングの観点から体得していくことができるようになり、 私の人生に光が差してきました。

しかし、現実では夫の物理的な暴力が始まりました。 本当に怖い思いをしました。

子供にどれほどの迷惑をかけ、心に傷を与えてしまったかを思うと、今でも涙が出ます。

ところが、これも私がその場を離れるために必然に起こったこととすれば、 意味があったのです。

それほどのことでもなければ、私は決心がつけられなかったと思います。

コーチングの威力を知って思ったのは、うつになった時にもしコーチングを知っていれば、 またはもしコーチをつけていれば、こんなことにはならなかったのではないかということです。 そして、「コーチングの手法をうつ病予防に役立てられるのでは?」と考えた時、 自らの経験を生かし、コーチとして私が社会貢献できる具体的な方法として 「海外赴任する方とその家族に、うつ病にならずに、現地で成功して戴くために、 事前にお話する機会を作れないだろうか?」とひらめいたのです。

そんな時、信頼できる友人の一人に 「あなたは本当にどうなりたいの?」 と聞かれました。

「自由になりたいと思っている」 と私が答えると、

「思っているうちは実現しない。『なる』と宣言すれば現実になる」 と言われました。

私は即座に「私は自由になります」と、 自分自身と宇宙に宣言しました。

すると、即、奇跡は起こりました。 私の思いに賛同してくれる人が現れ、会社を一緒に起こすことになったのです。 それが、コーチ仲間であった現D-Lifeの社長です。 同時に、経済的自立のめどが立ったので 「再婚したのだから離婚してはならない」という思い込みから解き放たれ、 私は生きる場所を自ら選んで移りました。

自由になろうとあくせく努力するのではなく、思いの強さに現実がついていく感覚で、 たしかに物理的な大変さはあっても、自然な意味でのあるべき姿を感じられました。

岡崎 My Story ④ 海外赴任生活

極寒の1月に降り立ったポーランドの首都ワルシャワの空港は、 驚くほど小さかったのがとても印象的でした。 空港から新居までのデコボコ舗装の道では、車に揺られて酔いそうになりながら、 共産圏時代の名残である灰色の画一的なアパート群を眺めていました。 まだアスファルトが敷かれていない道も多く、溶け残った雪が茶色く、街行く人も暗い色のコートを着ていて、寂しさとも侘しさともつかないものを感じました。 それでも、到着した新居はガードマン付きの120平米の新築マンション。 いわゆる、富裕層や外国人が入るマンションでした。 それまで自分たちが暮らしていた部屋がゆうに2つ分入るくらいの広さと天井の高さに感動しました。 また、当然のごとくメイドさんが付きました。 時差が落ち着く間もなく、引越荷物の開梱、会社での歓迎会、 同世代の日本人内での歓迎会などが続きました。 寂しい、と思う間はありませんでした。 語学学校、外国人女性の集まり、日本人同士のランチ会やホームパーティー、 テニス、ピアノのレッスン、陶器の絵付け、旅行 etc. 一日48時間欲しかったし、自分が2人欲しかった。 でも逆に、有り余る時間と心の隙間を埋めるように、忙しくしていたのかもしれません。 ワルシャワでの生活が始まってから3ヶ月後には、 もう1年以上ここで暮らしているような錯覚に陥るほど、私は適応していたと感じていました。 しかし、それは仮の高揚感だったのかもしれません。 1年も経つと、親しかった友人が帰国したり別の国に異動になったりしました。 人間関係の捩れのようなものも生まれ、年配の日本人女性から不当ないじめを受けました。 また、その件が落ち着く頃、子供ができました。 現地の医療の不安から出産は日本でしたものの、 ワルシャワに戻ってからは育児の不安から、心穏やかでない日々が出てきました。 今でこそ、「産後うつ」という言葉が多くの人に知られていますが、 ほんの10年ほど前は、それほど一般的に知られておらず、 「私に限って、そんなことになるはずがない」と思い込んでいました。 もし、事前に、「海外ではメンタルトラブルを抱えやすい」という事実、 そして「それは誰にも起こりうる」ということを知っていたなら、私は現状を受け止め、 何らかの対策を講じられたのではないかと思います。 しかし、誰もそのことを指摘せず、私自身も不勉強だったので、 「気のせい」「心の持ちよう」「わがままを言うべきではない」として 不安に蓋をするかのごとく、買い物や旅行で心の隙間を埋めていました。 そんな心を抱えて1年ほど経つと、夫に帰国の辞令が出ました。 不思議に日本に帰ることができる嬉しさは、あまりありませんでした。 不便はあっても何とか頑張って来た5年間に、 自分からではなく外的な要因で終止符が打たれることに何故か納得がいかなかったのです。 たとえ仕方ないとわかっていても。 また、広い部屋から狭い社宅に移るのも、気乗りがしませんでした。 自由がなくなる気がしました。 さらに帰国すると、仕事をしていない自分を自覚せざるを得ないのも、嫌な気持ちでした。 まだ小さい子供を抱えて、忙しくなる夫を待つ生活を想像すると、かなり落ち込みました。 それでも、私には何も選択肢はありません。 辞令が出て1ヶ月後には、泣く泣くワルシャワの地を離れ、 日本の社宅に入って行きました。

岡崎 My Story ② 大学〜就職〜結婚

東京へは、父と母が車で送ってくれました。 セダンの車に、布団や衣類をいっぱいに詰め込んで… 朝焼けの日を受けながら、東名高速、Billy Joelを聴きながら、 「新しい生活が始まる」感覚に意気込みながらも戸惑っていたことをとても今でもよく覚えています。

東京で住んだ場所は巣鴨の地蔵通り商店街の金魚屋さんの二階。 「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街は、なつかしい風情がありました。

一人暮らしとはいえ、近くに親戚がいたので、心強くはありました。 大学生活が始まるまでは、授業に、テニスサークルに、アルバイトに、と 楽しい学生生活を送るイメージを持っていましたが・・・ 現実は全く違うものでした。

人が多すぎて、どうやって人と繋がりを持ったらいいのかわからない… とても孤独を感じました。 サークルにしてもいくつか試してみたものの、 表面的な付き合いの連続で、おしゃべりや飲み会の意義が見いだせない… そのようなことで、少し「ひきこもり」気味になりながらも夏までなんとか授業だけは出て、 夏休みいっぱい実家に戻りました。

そこで学習塾の講師のアルバイトに精を出しました。 そして好きな服を買ったり、北海道に旅行したりして、気持ちの区切りをつけたのです。 私の描いた学生生活ではないけれど、勉強、旅行、読書、映画鑑賞、という 自分がやりたいことをするための生活をしよう、と。 サークルになじめない自分を諦めて、我が道を行くことにしました。

そう決めると、意外と似たような人もいて、友達は少ないながらもいたので、 まったくの孤独ではありませんでした。 とにかく、大学3年生までは授業とアルバイト中心で、ほとんどの単位を取ってしまい、 4年生は週一回一単元だけ学校に行けばいい状態でした。

そして就職活動。 バブルは弾け、就職氷河期といわれる時期の始まりでした。 なりたい職業が定まっていなかった私は、可能性を模索しつつ、何十社か会社訪問をしたり、 試験を受けたりしました。 たいへん厳しい状況でしたが、ある出版社にご縁を戴き、内定を取ることができました。

編集者生活を夢見て入った会社では、最初は営業実習。 営業をするなんて思ってもみなかった私にとっては、衝撃の日々でした。 来る日も来る日も書店を巡り、夕方に会社に帰っては事務処理。 6月の雨の中、足がむくんでパンプスが破れ、それでも歩いて会社に帰らなければならなかった長い道のり。 先輩に叱られ、成績は上がらず… 涙が止まらない日々でした。

それでも三ヶ月後には希望していた編集部に配属されました。 自分は「クリエーター」の端くれなんだと思った時の興奮は、今でも忘れられません。 先輩についていって作家との打合せに参加したり、企画会議で企画を発表したり、 新しいことばかりの新鮮な毎日でした。 遅くまでの残業もまったく苦になりませんでした。

編集部の中に、私のアトピーを心配してくださる先輩がいらっしゃいました。 ステロイドを使い続ける恐ろしさを説かれ、私は怖くなってステロイドの使用を止めました。 すると、お決まりのリバウンドが出て、寝たきりの状態になってしまいました。 一ヶ月のお休みを戴き、自分で一ヶ月と区切ったものの、身体は休息を要求していました。

職場復帰はしても、数ヶ月でヘルペスになり、ダウン。二週間入院しました。 そこからは休職して、ほとんど実家で寝たり起きたりの生活になってしまいました。 これから、という時に自分の力が出せない悔しさは、本当に辛かったです。

それでも、有り難いことに、学生時代からおつきあいしていた方がプロポーズしてくれて、 結婚しました。 復帰の見込みが立たなかったので会社も辞め、フリーランスとして仕事をすることにしました。 フリーランスといっても、仕事があるからフリーになったわけではなく、 「フリーになりますから、お仕事させてください」と知りうる限りの人にアナウンスして、 お仕事を戴けるようになったのです。

翻訳もコツコツ勉強し、下訳をぼちぼちやらせて戴けるようになりました。

そうこうしているうちに、商社員である夫の海外転勤が決まりました。

岡崎 My Story 1: 0~18歳まで

今日は、岡崎のプチ波乱に満ちた半生…(というより反省?)についてお話したいと思います。

私は神奈川県で生まれました。 当時、一家は宮城県白石市にある牧場に暮らしていましたが、 あまりにも山奥すぎて医療に不安があったため、 母は実家の鎌倉に戻って私を出産しました。

誕生後、しばらくして白石に帰りましたが、 結局一年足らずで引っ越しを余儀なくされました。 なぜなら…4歳上の姉が、あまりにも人との接触が少なく、 父親曰く「自閉気味になった・・・」ためです。

そして、父は愛知にある飼料会社の試験牧場の場長へと転職しました。 それに伴い、私たちも岡崎市へと居を移しました。

父は元々神奈川県庁の役人でしたが、役人生活が嫌で、 役所を飛び出して東北の牧場で豚の品種改良に専念しました。 鎌倉生まれの鎌倉育ちで、堅いお役人さんと結婚したと思っていた母が、 一転して牧場の雇われ場長の奥さんとして地方の山奥に住むということは、 たいへん心細かったと思います。

しかし、母は持ち前の気丈さで、私たち姉妹を細やかな愛情で育ててくれました。

幼稚園では、「お受験」の経験をしました。 風吹きすさぶ中、逆上がりをできるようになるまでやるとか、 運ていのスピードを競うとか、分けも分からない中、 かなりのスパルタ教育を受けました。

特訓の成果があってか、愛知教育大学附属岡崎小学校に入学しました。 バスに揺られ、一時間以上かけての通学は幼い身に大変でしたが、 バスの中での人間観察は、物語好きで夢見がちな少女に楽しみを与えてくれました。

小学校では、いわゆる優等生。 親にも先生にも「都合のいい」がんばり屋さんでした。 今から思えば… 実はこれがのちのち問題の原因となっていったのでは…と思っています。

中学はそのまま附属に上がり、そこでも仮面をかぶり優等生を続けました。 中学では、かなり精神的に息切れしていたのですが、 私にはがんばり続けなければならない理由がありました。

私は岡崎という土地に、どうにもなじめませんでした。 いわゆる、水が合わないのです。暮らしていることに、違和感がある。 親も兄弟も友達もいるし、困ったことはないけれど、 ずっと住み続けるのは、無理。 私は小学校六年でそう気づいてしまったのです。 親からは、東大か早稲田か慶応しか行かさないと言われたので、 (無理だと思っていたのでしょう・・・) 子供心に、自分には東大は無理とわかり、 高校は早稲田に推薦枠のあるところに入ると決めたのでした。

だから中学校では、その高校に入るために内申書の点を確実に取らざるを得なかったのです。

私は才能や能力に恵まれた方ではありません。 それを補うべく、必死で努力しました。許容量を超えて努力してしまいました。

努力の甲斐あり、県立岡崎高校に入学できたのは、幸いなことでした。 しかし、高校に入ってすぐ、圧倒的に能力の高い人たちとの出会いに衝撃を受けました。 彼らはもちろん努力もしていましたが、生まれ持った能力の高さが半端ではない。 私の努力だけでは太刀打ちできませんでした。 もし、その時、視点や意識を変えるきっかけがあったり、 それをサポートしてくれるコーチに恵まれたりしたら、 楽しいはずの青春に、あれほど苦しまなかったかもしれません。

しかし、私にはたとえ虚しくても努力を重ねるしかやり方が分かりませんでした。 成績は下がって行く中、推薦のための内申点を取るために、必死の日々でした。 バスケットボール部、剣道部のマネージャー、生徒会など、勉強以外にも学生生活を楽しんだ・・・ はずですが、とにかく全国的にも有名な進学校です。 勉強しなければ、どんどん落ちこぼれていく・・・ でも、絶対に東京に出なければならない・・・ 日々、葛藤していました。

幸運にも、高校3年生の夏には早稲田大学第一文学部への推薦が内定し、 ひとまず私の受験は終わりましたが、嬉しいというより、完全に燃え尽きてしまいました。 6年間抱き続けた目標をクリアした後、自分がどうしたらいいのかまったくわからなくなってしまったのです。

そんな宙ぶらりんな状態のまま、私の東京での一人暮らしが大学生活とともに始まりました。

D-Lifeにかける想い

こんにちは D-Lifeの岡崎です。

DーLifeでは、「海外赴任者とその家族が、うつ病などの精神疾患によって途中帰国しないための事前研修」を提供しています。

このプログラムが生まれた背景には、私、岡崎と、友松が、若き頃にそれぞれの海外赴任で体験した辛い体験があります。

(それぞれの体験は、いずれ自己紹介でお話し致します。)

私は海外赴任に端を発する病や離婚など、心身の危機を、自らの力で乗り越えてきました。

しかし、ずっと思っていました。

「予め知っていたら、違う展開だった。」 「この辛いマラソンに伴走者がいてくれたら・・・」

そして運命のコーチングとの出遭いから、メンタルマネジメントコーチとして活動することを通して、

「体験者として、貢献できることは何か?」 について考えるようになりました。

海外赴任者とその家族への貢献は、企業、そして日本、さらには世界への貢献なのだと信じています。

私は医師ではありませんが、うつ病にならないための具体的な方法がわかっています。

不安を抱える方に「心の予防法」をお伝えしたり、「心の自己治癒力」を向上するお手伝いをすることができます。

私たちの提供するプログラムやセッションを通して、一人でも、一家族でも多くの方が、「大成功!」と笑顔で帰国されることを祈り、活動していく所存です。

Our D-Life… Part 2

こんにちは、友松です。 今日は温かくなって良いですね。 何かと助かります… さて、先日お話したブログでお伝えしたい内容のあらましをまとめました。 ざっと以下の様にお伝えできたらと思っています。 <D-Lifeについて> ・D-Lifeの目的や使命 ・D-Lifeを通して達成したいこと… etc. <健康のこと> ・毎日を充実したものにするためには? ・食事や運動のこと ・本当に必要かつ効果的な睡眠とは? ・うつやアトピーから身を守るには…etc. <海外生活について> ・知らなきゃ危険!知っててトクすること ・海外でのコミュニケーション <歯科関係のこと> ・良い歯医者の見つけ方、かかり方、付き合い方とは? ・知ってて得する歯科の知識…etc. <ビジネス関係のはなし> ・効果的な時間管理、予定の立て方とは? ・成りたい自分を実現する… 習慣化のパワーについて <趣味・教養> ・車の文化あれこれ ・DなWine Life 皆さんに楽しんで戴けるように掲載して行きたいと思っています。 よろしくお願い致します。

Our D-Life…

こんにちは、友松です。 ここのところとっても寒いですね。 朝6時に家を出てみると外気温は何と1℃でした。 身が引き締まります。 思うところがあって、 今日はD-Lifeの今後の方向性について一日考えています。 私どもに何ができるか? 何を提供でき、何に貢献できるのか? 使命は何か? などなど… そこでブログでお伝えしたい内容のあらましをまとめています。 近々お伝えします。