岡崎 My Story ③ ワルシャワの地へ

赴任先は「ポーランド」の首都ワルシャワ。

前夫は出張で一年のうち三分の一はポーランドにいたので、 彼にとっては「やはり」の赴任だったと思いますが、 私にとっては未知の地での生活のスタートでした。

右往左往しながらの引越準備が始まりました。 辞令が出てから出発まで1ヶ月。

とにかく、冬の寒さの厳しさのイメージが強く、とりあえず分厚い羽毛布団を買いました。

(実際には、ほとんどの家はセントラルヒーティングなので、冬でも半袖で過ごせるほど。 厚い布団は必要ありませんでしたが、もしセントラルヒーティングが壊れたら… と思うと、 マイナス10度の寒さになる冬には、それくらいの備えはあってよかったのかもしれません)

また、日本食材はあまり手に入らないとの情報があったので、 業務用スーパーで大瓶の調味料を買い込みました。

引越作業と平行して日本での仕事の始末、家族への挨拶など、本当にめまぐるしく日々が過ぎ、 引越を完了する頃は、感慨よりも疲労しか感じませんでした。

実際には、夫が辞令が出てから一ヶ月後に出発し、私は三ヶ月後に出発しました。 その三ヶ月間は仕事の始末をつけ、会っておくべき人と会い、足りない買い物を補うなど、 多忙を極めました。

夫が出発してから、会社での奥様研修がありました。 会社の会議室に世界各地に赴く30名くらいの奥様が集合。

米国や、欧州(英国、ドイツなど)は複数名行く方がいらっしゃいましたが、 東欧は私一人…  情報を共有できる方はいませんでした。 経験者のお話もありました。 内容的には、アメリカ駐在から帰られた奥様が、 その方のアメリカでの暮らしについて30分ほどお話になりましたが、 残念ながら、東欧で生活を始める私にとって響く内容ではありませんでした。 その後、会社から「海外生活マニュアル」のようなものが配布され、 「何かあったら、これを見るか、人事に聞いて下さい」と言われ、2時間もせず終了。 私は夫の所属していた部署にお菓子折りを持って挨拶に行き、帰宅しました。

また、夫の場合、前任者がいなかったため、前情報がほとんど無く、 夫が現地で知り合った他社の奥様からの情報を頼りに、できる限りの準備をした、 という状態でした。

それでも、20代で若く、子供もいなかったこともあり、「行けばなんとかなる」と、 良くいえばポジティヴに、悪くいえば安易に捉えていました。

そして夫の辞令が出てから3ヶ月後、いよいよ私はポーランドへと旅立ちました。

岡崎 My Story ② 大学〜就職〜結婚

東京へは、父と母が車で送ってくれました。 セダンの車に、布団や衣類をいっぱいに詰め込んで… 朝焼けの日を受けながら、東名高速、Billy Joelを聴きながら、 「新しい生活が始まる」感覚に意気込みながらも戸惑っていたことをとても今でもよく覚えています。

東京で住んだ場所は巣鴨の地蔵通り商店街の金魚屋さんの二階。 「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街は、なつかしい風情がありました。

一人暮らしとはいえ、近くに親戚がいたので、心強くはありました。 大学生活が始まるまでは、授業に、テニスサークルに、アルバイトに、と 楽しい学生生活を送るイメージを持っていましたが・・・ 現実は全く違うものでした。

人が多すぎて、どうやって人と繋がりを持ったらいいのかわからない… とても孤独を感じました。 サークルにしてもいくつか試してみたものの、 表面的な付き合いの連続で、おしゃべりや飲み会の意義が見いだせない… そのようなことで、少し「ひきこもり」気味になりながらも夏までなんとか授業だけは出て、 夏休みいっぱい実家に戻りました。

そこで学習塾の講師のアルバイトに精を出しました。 そして好きな服を買ったり、北海道に旅行したりして、気持ちの区切りをつけたのです。 私の描いた学生生活ではないけれど、勉強、旅行、読書、映画鑑賞、という 自分がやりたいことをするための生活をしよう、と。 サークルになじめない自分を諦めて、我が道を行くことにしました。

そう決めると、意外と似たような人もいて、友達は少ないながらもいたので、 まったくの孤独ではありませんでした。 とにかく、大学3年生までは授業とアルバイト中心で、ほとんどの単位を取ってしまい、 4年生は週一回一単元だけ学校に行けばいい状態でした。

そして就職活動。 バブルは弾け、就職氷河期といわれる時期の始まりでした。 なりたい職業が定まっていなかった私は、可能性を模索しつつ、何十社か会社訪問をしたり、 試験を受けたりしました。 たいへん厳しい状況でしたが、ある出版社にご縁を戴き、内定を取ることができました。

編集者生活を夢見て入った会社では、最初は営業実習。 営業をするなんて思ってもみなかった私にとっては、衝撃の日々でした。 来る日も来る日も書店を巡り、夕方に会社に帰っては事務処理。 6月の雨の中、足がむくんでパンプスが破れ、それでも歩いて会社に帰らなければならなかった長い道のり。 先輩に叱られ、成績は上がらず… 涙が止まらない日々でした。

それでも三ヶ月後には希望していた編集部に配属されました。 自分は「クリエーター」の端くれなんだと思った時の興奮は、今でも忘れられません。 先輩についていって作家との打合せに参加したり、企画会議で企画を発表したり、 新しいことばかりの新鮮な毎日でした。 遅くまでの残業もまったく苦になりませんでした。

編集部の中に、私のアトピーを心配してくださる先輩がいらっしゃいました。 ステロイドを使い続ける恐ろしさを説かれ、私は怖くなってステロイドの使用を止めました。 すると、お決まりのリバウンドが出て、寝たきりの状態になってしまいました。 一ヶ月のお休みを戴き、自分で一ヶ月と区切ったものの、身体は休息を要求していました。

職場復帰はしても、数ヶ月でヘルペスになり、ダウン。二週間入院しました。 そこからは休職して、ほとんど実家で寝たり起きたりの生活になってしまいました。 これから、という時に自分の力が出せない悔しさは、本当に辛かったです。

それでも、有り難いことに、学生時代からおつきあいしていた方がプロポーズしてくれて、 結婚しました。 復帰の見込みが立たなかったので会社も辞め、フリーランスとして仕事をすることにしました。 フリーランスといっても、仕事があるからフリーになったわけではなく、 「フリーになりますから、お仕事させてください」と知りうる限りの人にアナウンスして、 お仕事を戴けるようになったのです。

翻訳もコツコツ勉強し、下訳をぼちぼちやらせて戴けるようになりました。

そうこうしているうちに、商社員である夫の海外転勤が決まりました。

岡崎 My Story 1: 0~18歳まで

今日は、岡崎のプチ波乱に満ちた半生…(というより反省?)についてお話したいと思います。

私は神奈川県で生まれました。 当時、一家は宮城県白石市にある牧場に暮らしていましたが、 あまりにも山奥すぎて医療に不安があったため、 母は実家の鎌倉に戻って私を出産しました。

誕生後、しばらくして白石に帰りましたが、 結局一年足らずで引っ越しを余儀なくされました。 なぜなら…4歳上の姉が、あまりにも人との接触が少なく、 父親曰く「自閉気味になった・・・」ためです。

そして、父は愛知にある飼料会社の試験牧場の場長へと転職しました。 それに伴い、私たちも岡崎市へと居を移しました。

父は元々神奈川県庁の役人でしたが、役人生活が嫌で、 役所を飛び出して東北の牧場で豚の品種改良に専念しました。 鎌倉生まれの鎌倉育ちで、堅いお役人さんと結婚したと思っていた母が、 一転して牧場の雇われ場長の奥さんとして地方の山奥に住むということは、 たいへん心細かったと思います。

しかし、母は持ち前の気丈さで、私たち姉妹を細やかな愛情で育ててくれました。

幼稚園では、「お受験」の経験をしました。 風吹きすさぶ中、逆上がりをできるようになるまでやるとか、 運ていのスピードを競うとか、分けも分からない中、 かなりのスパルタ教育を受けました。

特訓の成果があってか、愛知教育大学附属岡崎小学校に入学しました。 バスに揺られ、一時間以上かけての通学は幼い身に大変でしたが、 バスの中での人間観察は、物語好きで夢見がちな少女に楽しみを与えてくれました。

小学校では、いわゆる優等生。 親にも先生にも「都合のいい」がんばり屋さんでした。 今から思えば… 実はこれがのちのち問題の原因となっていったのでは…と思っています。

中学はそのまま附属に上がり、そこでも仮面をかぶり優等生を続けました。 中学では、かなり精神的に息切れしていたのですが、 私にはがんばり続けなければならない理由がありました。

私は岡崎という土地に、どうにもなじめませんでした。 いわゆる、水が合わないのです。暮らしていることに、違和感がある。 親も兄弟も友達もいるし、困ったことはないけれど、 ずっと住み続けるのは、無理。 私は小学校六年でそう気づいてしまったのです。 親からは、東大か早稲田か慶応しか行かさないと言われたので、 (無理だと思っていたのでしょう・・・) 子供心に、自分には東大は無理とわかり、 高校は早稲田に推薦枠のあるところに入ると決めたのでした。

だから中学校では、その高校に入るために内申書の点を確実に取らざるを得なかったのです。

私は才能や能力に恵まれた方ではありません。 それを補うべく、必死で努力しました。許容量を超えて努力してしまいました。

努力の甲斐あり、県立岡崎高校に入学できたのは、幸いなことでした。 しかし、高校に入ってすぐ、圧倒的に能力の高い人たちとの出会いに衝撃を受けました。 彼らはもちろん努力もしていましたが、生まれ持った能力の高さが半端ではない。 私の努力だけでは太刀打ちできませんでした。 もし、その時、視点や意識を変えるきっかけがあったり、 それをサポートしてくれるコーチに恵まれたりしたら、 楽しいはずの青春に、あれほど苦しまなかったかもしれません。

しかし、私にはたとえ虚しくても努力を重ねるしかやり方が分かりませんでした。 成績は下がって行く中、推薦のための内申点を取るために、必死の日々でした。 バスケットボール部、剣道部のマネージャー、生徒会など、勉強以外にも学生生活を楽しんだ・・・ はずですが、とにかく全国的にも有名な進学校です。 勉強しなければ、どんどん落ちこぼれていく・・・ でも、絶対に東京に出なければならない・・・ 日々、葛藤していました。

幸運にも、高校3年生の夏には早稲田大学第一文学部への推薦が内定し、 ひとまず私の受験は終わりましたが、嬉しいというより、完全に燃え尽きてしまいました。 6年間抱き続けた目標をクリアした後、自分がどうしたらいいのかまったくわからなくなってしまったのです。

そんな宙ぶらりんな状態のまま、私の東京での一人暮らしが大学生活とともに始まりました。

D-Lifeにかける想い

こんにちは D-Lifeの岡崎です。

DーLifeでは、「海外赴任者とその家族が、うつ病などの精神疾患によって途中帰国しないための事前研修」を提供しています。

このプログラムが生まれた背景には、私、岡崎と、友松が、若き頃にそれぞれの海外赴任で体験した辛い体験があります。

(それぞれの体験は、いずれ自己紹介でお話し致します。)

私は海外赴任に端を発する病や離婚など、心身の危機を、自らの力で乗り越えてきました。

しかし、ずっと思っていました。

「予め知っていたら、違う展開だった。」 「この辛いマラソンに伴走者がいてくれたら・・・」

そして運命のコーチングとの出遭いから、メンタルマネジメントコーチとして活動することを通して、

「体験者として、貢献できることは何か?」 について考えるようになりました。

海外赴任者とその家族への貢献は、企業、そして日本、さらには世界への貢献なのだと信じています。

私は医師ではありませんが、うつ病にならないための具体的な方法がわかっています。

不安を抱える方に「心の予防法」をお伝えしたり、「心の自己治癒力」を向上するお手伝いをすることができます。

私たちの提供するプログラムやセッションを通して、一人でも、一家族でも多くの方が、「大成功!」と笑顔で帰国されることを祈り、活動していく所存です。

素晴らしい一年となりますように

あけましておめでとうございます。

D-Life コンサルティング 岡崎です。

海外赴任される方、海外赴任中の方、そして帰任された方々を 経験者としての視点と共感、コーチ、カウンセラーとしての技術をもって、 そしてなによりも人間としての意識を高めつつ、 サポートすることに徹する一年にいたします。

どうぞよろしくお願い申し上げます。