今日は、岡崎のプチ波乱に満ちた半生…(というより反省?)についてお話したいと思います。

私は神奈川県で生まれました。 当時、一家は宮城県白石市にある牧場に暮らしていましたが、 あまりにも山奥すぎて医療に不安があったため、 母は実家の鎌倉に戻って私を出産しました。

誕生後、しばらくして白石に帰りましたが、 結局一年足らずで引っ越しを余儀なくされました。 なぜなら…4歳上の姉が、あまりにも人との接触が少なく、 父親曰く「自閉気味になった・・・」ためです。

そして、父は愛知にある飼料会社の試験牧場の場長へと転職しました。 それに伴い、私たちも岡崎市へと居を移しました。

父は元々神奈川県庁の役人でしたが、役人生活が嫌で、 役所を飛び出して東北の牧場で豚の品種改良に専念しました。 鎌倉生まれの鎌倉育ちで、堅いお役人さんと結婚したと思っていた母が、 一転して牧場の雇われ場長の奥さんとして地方の山奥に住むということは、 たいへん心細かったと思います。

しかし、母は持ち前の気丈さで、私たち姉妹を細やかな愛情で育ててくれました。

幼稚園では、「お受験」の経験をしました。 風吹きすさぶ中、逆上がりをできるようになるまでやるとか、 運ていのスピードを競うとか、分けも分からない中、 かなりのスパルタ教育を受けました。

特訓の成果があってか、愛知教育大学附属岡崎小学校に入学しました。 バスに揺られ、一時間以上かけての通学は幼い身に大変でしたが、 バスの中での人間観察は、物語好きで夢見がちな少女に楽しみを与えてくれました。

小学校では、いわゆる優等生。 親にも先生にも「都合のいい」がんばり屋さんでした。 今から思えば… 実はこれがのちのち問題の原因となっていったのでは…と思っています。

中学はそのまま附属に上がり、そこでも仮面をかぶり優等生を続けました。 中学では、かなり精神的に息切れしていたのですが、 私にはがんばり続けなければならない理由がありました。

私は岡崎という土地に、どうにもなじめませんでした。 いわゆる、水が合わないのです。暮らしていることに、違和感がある。 親も兄弟も友達もいるし、困ったことはないけれど、 ずっと住み続けるのは、無理。 私は小学校六年でそう気づいてしまったのです。 親からは、東大か早稲田か慶応しか行かさないと言われたので、 (無理だと思っていたのでしょう・・・) 子供心に、自分には東大は無理とわかり、 高校は早稲田に推薦枠のあるところに入ると決めたのでした。

だから中学校では、その高校に入るために内申書の点を確実に取らざるを得なかったのです。

私は才能や能力に恵まれた方ではありません。 それを補うべく、必死で努力しました。許容量を超えて努力してしまいました。

努力の甲斐あり、県立岡崎高校に入学できたのは、幸いなことでした。 しかし、高校に入ってすぐ、圧倒的に能力の高い人たちとの出会いに衝撃を受けました。 彼らはもちろん努力もしていましたが、生まれ持った能力の高さが半端ではない。 私の努力だけでは太刀打ちできませんでした。 もし、その時、視点や意識を変えるきっかけがあったり、 それをサポートしてくれるコーチに恵まれたりしたら、 楽しいはずの青春に、あれほど苦しまなかったかもしれません。

しかし、私にはたとえ虚しくても努力を重ねるしかやり方が分かりませんでした。 成績は下がって行く中、推薦のための内申点を取るために、必死の日々でした。 バスケットボール部、剣道部のマネージャー、生徒会など、勉強以外にも学生生活を楽しんだ・・・ はずですが、とにかく全国的にも有名な進学校です。 勉強しなければ、どんどん落ちこぼれていく・・・ でも、絶対に東京に出なければならない・・・ 日々、葛藤していました。

幸運にも、高校3年生の夏には早稲田大学第一文学部への推薦が内定し、 ひとまず私の受験は終わりましたが、嬉しいというより、完全に燃え尽きてしまいました。 6年間抱き続けた目標をクリアした後、自分がどうしたらいいのかまったくわからなくなってしまったのです。

そんな宙ぶらりんな状態のまま、私の東京での一人暮らしが大学生活とともに始まりました。