岡崎 My Story ④ 海外赴任生活
極寒の1月に降り立ったポーランドの首都ワルシャワの空港は、
驚くほど小さかったのがとても印象的でした。
空港から新居までのデコボコ舗装の道では、車に揺られて酔いそうになりながら、
共産圏時代の名残である灰色の画一的なアパート群を眺めていました。
まだアスファルトが敷かれていない道も多く、溶け残った雪が茶色く、街行く人も暗い色のコートを着ていて、寂しさとも侘しさともつかないものを感じました。
それでも、到着した新居はガードマン付きの120平米の新築マンション。
いわゆる、富裕層や外国人が入るマンションでした。
それまで自分たちが暮らしていた部屋がゆうに2つ分入るくらいの広さと天井の高さに感動しました。
また、当然のごとくメイドさんが付きました。
時差が落ち着く間もなく、引越荷物の開梱、会社での歓迎会、
同世代の日本人内での歓迎会などが続きました。
寂しい、と思う間はありませんでした。
語学学校、外国人女性の集まり、日本人同士のランチ会やホームパーティー、
テニス、ピアノのレッスン、陶器の絵付け、旅行 etc.
一日48時間欲しかったし、自分が2人欲しかった。
でも逆に、有り余る時間と心の隙間を埋めるように、忙しくしていたのかもしれません。
ワルシャワでの生活が始まってから3ヶ月後には、
もう1年以上ここで暮らしているような錯覚に陥るほど、私は適応していたと感じていました。
しかし、それは仮の高揚感だったのかもしれません。
1年も経つと、親しかった友人が帰国したり別の国に異動になったりしました。
人間関係の捩れのようなものも生まれ、年配の日本人女性から不当ないじめを受けました。
また、その件が落ち着く頃、子供ができました。
現地の医療の不安から出産は日本でしたものの、
ワルシャワに戻ってからは育児の不安から、心穏やかでない日々が出てきました。
今でこそ、「産後うつ」という言葉が多くの人に知られていますが、
ほんの10年ほど前は、それほど一般的に知られておらず、
「私に限って、そんなことになるはずがない」と思い込んでいました。
もし、事前に、「海外ではメンタルトラブルを抱えやすい」という事実、
そして「それは誰にも起こりうる」ということを知っていたなら、私は現状を受け止め、
何らかの対策を講じられたのではないかと思います。
しかし、誰もそのことを指摘せず、私自身も不勉強だったので、
「気のせい」「心の持ちよう」「わがままを言うべきではない」として
不安に蓋をするかのごとく、買い物や旅行で心の隙間を埋めていました。
そんな心を抱えて1年ほど経つと、夫に帰国の辞令が出ました。
不思議に日本に帰ることができる嬉しさは、あまりありませんでした。
不便はあっても何とか頑張って来た5年間に、
自分からではなく外的な要因で終止符が打たれることに何故か納得がいかなかったのです。
たとえ仕方ないとわかっていても。
また、広い部屋から狭い社宅に移るのも、気乗りがしませんでした。
自由がなくなる気がしました。
さらに帰国すると、仕事をしていない自分を自覚せざるを得ないのも、嫌な気持ちでした。
まだ小さい子供を抱えて、忙しくなる夫を待つ生活を想像すると、かなり落ち込みました。
それでも、私には何も選択肢はありません。
辞令が出て1ヶ月後には、泣く泣くワルシャワの地を離れ、
日本の社宅に入って行きました。