東京へは、父と母が車で送ってくれました。 セダンの車に、布団や衣類をいっぱいに詰め込んで… 朝焼けの日を受けながら、東名高速、Billy Joelを聴きながら、 「新しい生活が始まる」感覚に意気込みながらも戸惑っていたことをとても今でもよく覚えています。

東京で住んだ場所は巣鴨の地蔵通り商店街の金魚屋さんの二階。 「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街は、なつかしい風情がありました。

一人暮らしとはいえ、近くに親戚がいたので、心強くはありました。 大学生活が始まるまでは、授業に、テニスサークルに、アルバイトに、と 楽しい学生生活を送るイメージを持っていましたが・・・ 現実は全く違うものでした。

人が多すぎて、どうやって人と繋がりを持ったらいいのかわからない… とても孤独を感じました。 サークルにしてもいくつか試してみたものの、 表面的な付き合いの連続で、おしゃべりや飲み会の意義が見いだせない… そのようなことで、少し「ひきこもり」気味になりながらも夏までなんとか授業だけは出て、 夏休みいっぱい実家に戻りました。

そこで学習塾の講師のアルバイトに精を出しました。 そして好きな服を買ったり、北海道に旅行したりして、気持ちの区切りをつけたのです。 私の描いた学生生活ではないけれど、勉強、旅行、読書、映画鑑賞、という 自分がやりたいことをするための生活をしよう、と。 サークルになじめない自分を諦めて、我が道を行くことにしました。

そう決めると、意外と似たような人もいて、友達は少ないながらもいたので、 まったくの孤独ではありませんでした。 とにかく、大学3年生までは授業とアルバイト中心で、ほとんどの単位を取ってしまい、 4年生は週一回一単元だけ学校に行けばいい状態でした。

そして就職活動。 バブルは弾け、就職氷河期といわれる時期の始まりでした。 なりたい職業が定まっていなかった私は、可能性を模索しつつ、何十社か会社訪問をしたり、 試験を受けたりしました。 たいへん厳しい状況でしたが、ある出版社にご縁を戴き、内定を取ることができました。

編集者生活を夢見て入った会社では、最初は営業実習。 営業をするなんて思ってもみなかった私にとっては、衝撃の日々でした。 来る日も来る日も書店を巡り、夕方に会社に帰っては事務処理。 6月の雨の中、足がむくんでパンプスが破れ、それでも歩いて会社に帰らなければならなかった長い道のり。 先輩に叱られ、成績は上がらず… 涙が止まらない日々でした。

それでも三ヶ月後には希望していた編集部に配属されました。 自分は「クリエーター」の端くれなんだと思った時の興奮は、今でも忘れられません。 先輩についていって作家との打合せに参加したり、企画会議で企画を発表したり、 新しいことばかりの新鮮な毎日でした。 遅くまでの残業もまったく苦になりませんでした。

編集部の中に、私のアトピーを心配してくださる先輩がいらっしゃいました。 ステロイドを使い続ける恐ろしさを説かれ、私は怖くなってステロイドの使用を止めました。 すると、お決まりのリバウンドが出て、寝たきりの状態になってしまいました。 一ヶ月のお休みを戴き、自分で一ヶ月と区切ったものの、身体は休息を要求していました。

職場復帰はしても、数ヶ月でヘルペスになり、ダウン。二週間入院しました。 そこからは休職して、ほとんど実家で寝たり起きたりの生活になってしまいました。 これから、という時に自分の力が出せない悔しさは、本当に辛かったです。

それでも、有り難いことに、学生時代からおつきあいしていた方がプロポーズしてくれて、 結婚しました。 復帰の見込みが立たなかったので会社も辞め、フリーランスとして仕事をすることにしました。 フリーランスといっても、仕事があるからフリーになったわけではなく、 「フリーになりますから、お仕事させてください」と知りうる限りの人にアナウンスして、 お仕事を戴けるようになったのです。

翻訳もコツコツ勉強し、下訳をぼちぼちやらせて戴けるようになりました。

そうこうしているうちに、商社員である夫の海外転勤が決まりました。