今日は、
「なぜ、私が歯科医を辞めて新しい事業を起こしたのか?」
と良く聞かれるのでその話をさせて戴きます。
そうですよね。
最近は歯科医の数も増えて来たとは言え、
国家資格を取得して、更にPh.D.(博士号)まで取得して、
歯科医として臨床をストップすると言うのは、尋常ではないかも知れません。
これをお話しするにあたっては…
先ずは「私の歯科医までの生い立ち」をお話ししたいと思います。
「私の歯科医までの生い立ち」
〜学生編〜
私は歯科医の家庭に生まれました。
父は歯科補綴(入れ歯やセラミックなどの歯)の専門医で、
技工士学校学校(入れ歯や被せ物を作る人の専門学校)の講師でもあり、
約40年に渡り教鞭を取っていました。
当然、その道のエキスパートでありました。
日常では自分のオフィスで患者さんの診療にあたり、
通常は1日5人位しか患者さんを診察するスタイル。
診療から一般的に技工士さんが行う仕事である技工作業まで、
スペシャリストとして仕事の精度をあげるべく
事務を除くすべての仕事を自ら行っていました。
当時の歯科医は1日30〜50人の患者さんをこなしていましたから、
それと比較してかなり濃密な仕事をやっていました。
私はそんな、父の背中を見て育ってきました。
そんな環境で育ってきましたから、父に対する憧れも強く、
ものを作ることにとても興味を持っていましたから、幼いころから自分は器用だと思っていました。
そんな私も当時、約10倍の難関を突破して無事に日本大学歯学部に入学。
しかし、大学に入ると現実が待っていました。
私よりもっと出来が良く、
また、もっと器用で上手な同級生が多数存在。
学力のみならず、技術面でも自分はいつも真ん中から下。
時には下から数えた方が早い時もあったほどでした。
今までの自信はいとも簡単に砕かれ、
現実はとてものろまで、できが悪く、みじめな思いの連続でした。
特に歯科医に直結する実習の際は、
「あなたが友松先生のご子息ですね」といろいろな先生から声を掛けられ、
成績や製作物を見られてとても恥ずかしく、また、プレッシャーであったことを今でも忘れられません。
いやでしたね〜
エキスパートの父の存在と自分ができない事の恥ずかしさ、
そして技術的なレベルの現実を認める事は…
そんな私も何とか大学を卒業し、父と同じ医局に在籍しました。
ここから地獄と天国の人生が始まりました…
(次回、医局員、大学院編 ① に続く)